2006年10月14日

織田・豊臣時代の飯田城

武田氏を滅ぼして伊那郡を手中にした織田信長は、ただちに家臣の毛利秀頼を大島城におきました。そして、秀頼は下条氏長を飯田城の城代としました。しかし、4ヶ月後の1582年(天正10)6月2日の本能寺の変によって信長が倒れると、秀頼は伊那郡を去り、かわって徳川家康が伊那谷を支配しました。飯田城には下条頼安をおき、翌年、家康の家臣菅沼定利が知久平城から飯田城に入りました。

ところが、天下を治めた豊臣秀吉は、1590年(天正18)徳川家康を関東に移すと、伊那郡の武士の多くもそれに従いました。かわって、秀吉は毛利秀頼に再び伊那郡の支配を任せて、飯田城においたのです。しかし、3年後の1593年(文禄2)、秀頼が朝鮮出兵の陣中に亡くなると、そのもとで高遠城主で飯田城代を兼ねていた秀頼の娘婿京極高知を飯田城主とし、1600年(慶長5)に丹後宮津に移すまでの8年間治めさせました。

この毛利・京極時代、飯田領は下伊那ばかりか上伊那を含めた10万石があり、検地が行われました。飯田城は規模を拡大し、城下町も次第に整えられてきました。特に京極氏は、家臣の光増右衛門を奉行にして、10万石の城下町にふさわしい都市計画をつくり、整備を進めたと言われます。

【飯田城ガイドブックより】
posted by 三宜亭本館 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯田城 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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