2006年10月16日

近世飯田城(城下町)のつくりと特徴

飯田城という場合、惣堀で囲まれた城下町も含めた全体を呼ぶときと、城下町を除いた追手門の内側のみを呼ぶときがあります。ここでは後者を飯田城内と呼び、城下町と区別することにします。
 
◆飯田城内
飯田城は、松川と谷川に挟まれて段丘が岬状に突き出た部分を利用してつくられています。水堀や空堀で区画された6つの曲輪――山伏丸・本丸・二の丸・出丸・桜丸(桜の丸)・三の丸が直線的に並んだ「連郭式」と呼ばれる平山城の形態です。

城の両側には天然の断崖をもち、敵が本丸を攻める場合、いくつもの曲輪を突破しなければなりません。その上、それぞれの曲輪の入口には敵がまっすぐ進めないように、通路を土塁でカギの手にまげた枡形がつくられていました。また、本丸の南側崖下には水の手番と水堀があり、北側崖下の谷川沿いにも水堀が並んでいました。
このように、飯田城は大変守りの堅い城と言うことができます。

◆城下町
飯田城の城下町は、古くは城下に小規模にあって、後にいう水の手御門を追手門にしていたのではないか、とも考えられています。しかし、近世になって城が整備されるとともに、城下町は城の西方の台地上に広がるようになりました。そして、南を松川、北を野底川に挟まれた台地に拡大し、西側から北側にかけて惣堀(空堀)・土塁で囲まれるようになりました。江戸時代中ごろになって加わった桜町を除いて、城下町はみなその中にありました(ただし、箕瀬町は正確には飯田町でなく上飯田村分の在郷町だった)。
城下町は、中央に流れる谷川と、そこにかかる谷川橋(現在の長姫橋)によって現在でいう橋南と橋北に大きく分けられます。城下町の3つの出入口(伝馬町・土井・箕瀬)には枡形が設けられ、惣堀沿いには寺院が配置され、堀の内側には周辺に侍屋敷、中心に町屋がおかれていました。つまり、町人を大事に考え、商業の発展を目指した町であったことがわかります。
町屋は、橋南(南町)が13か町、橋北(北町)が5か町ありました。特に橋南では、竪町と横町の通りによって長方形に区切られた規則正しい町並みを形づくっていました。また、町屋1軒ごとは、間口(通りに面した正面)の幅に応じて税金がかけられたので、間口が狭く、奥に長い短冊形をして並んでいました。こうした形は、京都などにならったものでした。さらに、京都の雅な文化が好まれたこともあわせて、飯田の町は“小京都”と呼ばれていました。
惣堀に沿って寺院がおかれたのは、もしも敵が攻めてきたら、寺に兵をおき、惣堀の内側にある土塁上に墓石を並べて侵入を防ぐためであったと言われます。また、惣堀も普段は空堀ですが、水を溜めて水堀に変えることができた部分もあったようです。その内側の土塁には、外部からの城下町と城内が見渡せるのを防ぐために、杉や松が植えられていました。
このように、飯田の城下町は毛利・京極氏10万石時代に構想された大規模な都市計画に基づいてつくられていたのです。

◆全体
標高を比べてみると、城下町から城内に入り、三の丸から二の丸、さらに本丸に行くほど低くなります。こうした形は小諸城(小諸市)にも見られますが、江戸時代の多くの城が城下町の上にそびえているのとは大きく異なります。戦国時代の防御用の平山城を引き継いで整備したところに、飯田城の大きな特徴があるといってよいでしょう。

【飯田城ガイドブックより】
posted by 三宜亭本館 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯田城 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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