2006年12月30日

飯田城内を歩こう 【出丸・水の手御門付近】

demaru.jpg出丸は、現在、飯田市立追手町小学校が建つ曲輪です。三の丸の御広庭の突き当たりにあった鐘の門(出丸御門・三ノ門)を入口とし、弧を描く水堀―欅堀(槻堀)で区画された内が出丸でした。本来、出丸というのは、外部の敵に攻撃を仕掛けるために、城本体の外側に張り出すように設けられた曲輪のことです。
図書館の東寄りにあった出丸御門をくぐると、土塁や白堀、柵で仕切られた枡形となって二の丸御門へ行く土橋があり、その反対には出丸への入口の門がありました。また、土橋の手前から南方へ水の手坂を少し下りたところに、水の手御門と呼ばれる櫓門が建っていました。江戸時代中ごろの書物には、飯田城が今の銀座通りまで拡大されて三の丸ができる以前に、ここが追手門でしたが、後に搦手門になったと記されています。
このように、鐘の門・水の手御門・二の丸御門という3つの門にはさまれた一帯は、石垣積みの土塁で複雑に折れ曲がって枡形を形づくり、飯田城の中で最も防御のかたいところとなっていました。飯田城が三の丸まで拡大する前は、ここが城の入口(虎口)であったと考えられます。
出丸の内部は、古絵図をみると、水堀の内側に白塀をもち、その中ほどに櫓が建てられています。絵図によっては、塀に狭間(さま:弓矢や鉄砲で狙う小窓)が描かれたものも見られます。内部には、脇坂氏の時代には藩主脇坂安政の実兄、堀田上野介正信を幕府よりあずかった出丸御門(御在所)がありました。これが、1678年(延宝6)の火災にあうと、かわって年貢米を貯える米蔵5棟(「千俵蔵」)が建てられました。
なお、出丸跡に現在の追手町小学校の前身、飯田尋常高等小学校が移ったのは、1890年(明治23)のことです。

【飯田城ガイドブックより】
 

posted by 三宜亭本館 at 12:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯田城 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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