2007年02月26日

武田信玄 終焉の地

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飯田城は戦国時代、長らく武田家の支配下でした。NHK大河ドラマ「風林火山」も放映されていることもあり、信玄ゆかりの地を紹介したいと思います。ご興味のある方は、訪れてみてはいかがでしょうか。
 
◆ 信玄塚・信玄の宝篋印塔(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中、元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された(「甲陽軍鑑」より)。
その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。
寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751〜1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている(根羽村教育委員会)。
 
◆長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)

長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の郷、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下條家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下條伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。
昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

長岳寺には、信玄が使用していた兜の前立て二種類があり、「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」、「大日の丸練革製朱塗」が保存されている。
posted by 三宜亭本館 at 15:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯田城 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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