2007年03月28日

飯田城に天守閣はあったか

現在残るもっとも古い飯田城の絵図は、下伊那教育会にある脇坂氏時代の絵図です。
本丸には平屋建てを主とした御殿と小さな櫓が建っているだけです。しかし、飯田城にはそれ以前に天守閣があった、という説が、江戸時代の中ごろの書物(「信州伊奈郷村鑑」「信陽城主得替記」「飯田記」など)の中に書かれています。そして、郷土史を研究してきた先生の中にも、それを支持する考えがあります(平沢清人『飯田城と近世の飯田城』1972など)。

天守閣があったはずだとする理由は、おおよそ次の通りです。
豊臣秀吉に命じられて飯田城主となった毛利秀頼・京極高知は、ともに秀吉の信頼が厚い側近でした。秀頼は「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かっていたほどですし、高知の姉は秀吉の側室となっていました。飯田城主毛利・京極氏の10万石に対して、松本城主の石川氏は8万石、諏訪の高島城主の日根野氏は3万5千石であるのに天守閣をつくっています。ですから、毛利・京極氏が天守閣をつくらなかったはずがないというのです。

さらに古い書物には、飯田城の天守閣を松本城へ移した、ということが書かれています。飯田城主であった小笠原秀政が1613年(慶長18)に松本城主となるとき、飯田城の天守閣を解体して運んだというのです。
松本城には、5重6階の大天守に、3重4階の乾子天守がついた形となっています。この乾子天守がもとは飯田城の天守閣で、山伏丸のあたりにあったのでは、という説があります。

ところが、現在の飯田城には天守閣があったことを示す跡はありません。また松本城でも、それを裏付ける証拠は見つかっていません。そこで、飯田城はその地形からみて天守閣は必要なかった、という考え方や、あるいは天守閣の建設は計画倒れで終わったのではないか、という説もあります。しかし一方で、松本城の乾子天守が初めから現位置に建てられたにしては不自然だ、という人もあるのです。
はたして飯田城に天守閣があったのか、いまだに大きなナゾと言えます。

【飯田城ガイドブックより】
posted by 三宜亭本館 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯田城 歴史探訪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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