2006年10月14日

江戸時代の飯田城

1601年(慶長6)、関ヶ原の戦いで天下をおさめた徳川家康は、江戸幕府を開きました。幕府は、全国の大名を親藩・譜代と外様に分けて配置し、幕府直轄地(天領)には旗本や代官をおきました。1615年(元和元)には一国一城令を出して、各領主の城は居城となる一つだけとし、他の城は全て取り壊しをさせました。信濃国で居城をもつことが許されたのは、8人の大名でした。松代藩の松代城(長野市)、上田藩の上田城(上田市)、松本藩の松本城(松本市)、諏訪藩の高島城(諏訪市)、高遠藩の高遠城(伊那市)などです。当然飯田下伊那地方における城は、飯田藩の飯田城だけとなりました。

江戸時代は、1601年(慶長6)小笠原秀政に飯田城主を命じました。秀政は1613年(慶長18)まで12年間にわたって5万石を領し、飯田城の整備につとめました。

この秀政が松本へ移されると、しばらくは幕府が管理しますが、1617年(元和3)に脇坂安元が伊予大洲(愛媛県大洲市)から飯田城へ入りました。安元は文武両道にすぐれた名君で、武家第一の文化人としても知られており、今日、文化都市といわれる飯田の基盤は、彼によって築かれたとさえ言われます。脇坂氏が治めたのは、その養子安政までの2代55年間で、領地は5万5千石でした(うち5千石は上総国)。城下町をとりまく惣堀(外堀)が完成したのは、このころだったと言われています(別に小笠原氏時代の説がある)。正保年間に伝馬町の先に桜町ができ、城下町が拡大しました。

1672年(寛文12)、播磨竜野(兵庫県竜野市)へ国替えになった脇坂氏にかわって、下野烏山(栃木県烏山町)から堀親昌が飯田城に入り、それから1871年(明治4)まで12代にわたって堀氏が藩主となりました。堀氏はたった2万石前後の外様大名でしたが、産業の振興につとめました。伊那街道・三州街道・秋葉街道が交わる交通の要であった飯田は、馬の背に荷物をつけて物を運ぶ中馬(ちゅうま)の発達とともに、商工業都市として繁栄しました。

城下町には、幕府領の山林(榑木山)を管理する久々利(岐阜県可児市)の旗本(兼尾張徳川家重臣)千村氏が、代官所「飯田役所」(千村代官所)をおいていたことも、飯田の重要性を一層高めていました。天領や諸藩・旗本の領地が複雑に入り組む中にあって、飯田は中核的な役割を果たしてきたのです。

【飯田城ガイドブックより】
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明治時代の飯田城

1869年(明治2)、版籍奉還が行われると、12代堀親広は知藩事となりました。ついで、1871年(明治4)7月、廃藩置県となり、飯田藩が廃されて飯田県が生まれました。明治新政府から東京移住と廃城を命じられた親広は全てを始末して9月23日に飯田を去り、それと前後して飯田城の取壊しが急ピッチで行われました。

11月には飯田県は筑摩県に統合されました。1872年(明治5)1月には、元飯田藩士にそれぞれの居住地が払い下げられ、2月には隠居の11代堀親義も松尾久井に移りました。2月11日には、兵部大輔山形有朋の命令を受けて、上田鎮台(東京鎮台第二分営)から山形頼介が飯田城郭の受取りに来ました。そして、桜丸に筑摩県の出張所がおかれたのです。

その後1876年(明治9)になると、筑摩県は長野県に統合されました。このとき、飯田城跡を公園にする計画が出されましたが、ついに実現することはありませんでした。

明治時代初期における激しい破壊や変化は、飯田城だけでなく、堀氏に関係深い普門院や他の堂寺、更には神社にも及びました。

【飯田城ガイドブックより】
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飯田城と城下町 その後

飯田城跡は、桜丸から三の丸御広庭にかけたあたりには郡役所と裁判所や警察署と軍司令部などの役所施設、出丸跡には飯田尋常小学校(追手町小学校の前身)、二の丸跡には飯田中学(飯田高校の前身)・飯田商業高校(長姫高校の前身)、本丸跡には長姫神社が建てられました。現在も、一帯には長野県飯田合同庁舎・追手町小学校・飯田市美術博物館・飯田市立中央図書館などが集中し、飯田市最大の文教地区となっています。

一方、飯田のまちは明治時代以降、新しい道路が造られて町並みが整理されましたが、それでも城下町の風情に富んだ歴史と緑豊かな町「典型的な城下町」として全国に紹介されたほどです。

ところが1947年4月20日、知久町1丁目から出火した飯田大火は、またたく間に飯田の町全体をなめつくしました。焼失面積は市街地の約8割にあたる226,000坪、焼失家屋4,011戸、被災者は17,800人におよび、旧城下の寺院も17ヶ寺のうち11ヶ寺が全焼または類焼してしまいました。

銀座通りの焼け跡では、それまで家屋に覆われていた水堀跡がくぼみとなってはっきりと現れたといいますが、こうした堀跡も火災の燃え残りや灰などが投げ込まれて、さらに埋められてしまいました。

その後、敗戦のため日本に進駐していた連合国司令部(GHQ)の指令も受けて、飯田は防火モデル都市として復興しました。町中の道路幅は広げられて、市街地を十文字に走る防火帯道路(旧番匠町ほかの堅町・旧下横町)が設けられました。惣堀沿いに広がっていた寺院の墓地も整理されて道路用地などとなり、周辺地域とも新たな道路で結ばれたのです。また橋南では、住民が自分たちの土地の一部を提供して、町屋の境に裏界線が設けられました。

そして、1953年(昭和28)には当初植栽もなくガランとしていた防火帯道路(旧下横町)に、飯田東中学校の生徒達によってりんごの苗木40本が植えられ、りんご並木が誕生しました。これは札幌の街路樹にならって、飯田にも「実のなる街路樹を」、「りんごの熟した実が赤く輝いていて、誰もこっそり盗まないような美しい都市をつくりたい」という考えからでした。以来、今日も後輩たちによって大切に守り育てられているのです。

【飯田城ガイドブックより】
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