飯田城跡は、桜丸から三の丸御広庭にかけたあたりには郡役所と裁判所や警察署と軍司令部などの役所施設、出丸跡には飯田尋常小学校(追手町小学校の前身)、二の丸跡には飯田中学(飯田高校の前身)・飯田商業高校(長姫高校の前身)、本丸跡には長姫神社が建てられました。現在も、一帯には長野県飯田合同庁舎・追手町小学校・飯田市美術博物館・飯田市立中央図書館などが集中し、飯田市最大の文教地区となっています。
一方、飯田のまちは明治時代以降、新しい道路が造られて町並みが整理されましたが、それでも城下町の風情に富んだ歴史と緑豊かな町「典型的な城下町」として全国に紹介されたほどです。
ところが1947年4月20日、知久町1丁目から出火した飯田大火は、またたく間に飯田の町全体をなめつくしました。焼失面積は市街地の約8割にあたる226,000坪、焼失家屋4,011戸、被災者は17,800人におよび、旧城下の寺院も17ヶ寺のうち11ヶ寺が全焼または類焼してしまいました。
銀座通りの焼け跡では、それまで家屋に覆われていた水堀跡がくぼみとなってはっきりと現れたといいますが、こうした堀跡も火災の燃え残りや灰などが投げ込まれて、さらに埋められてしまいました。
その後、敗戦のため日本に進駐していた連合国司令部(GHQ)の指令も受けて、飯田は防火モデル都市として復興しました。町中の道路幅は広げられて、市街地を十文字に走る防火帯道路(旧番匠町ほかの堅町・旧下横町)が設けられました。惣堀沿いに広がっていた寺院の墓地も整理されて道路用地などとなり、周辺地域とも新たな道路で結ばれたのです。また橋南では、住民が自分たちの土地の一部を提供して、町屋の境に裏界線が設けられました。
そして、1953年(昭和28)には当初植栽もなくガランとしていた防火帯道路(旧下横町)に、飯田東中学校の生徒達によってりんごの苗木40本が植えられ、りんご並木が誕生しました。これは札幌の街路樹にならって、飯田にも「実のなる街路樹を」、「りんごの熟した実が赤く輝いていて、誰もこっそり盗まないような美しい都市をつくりたい」という考えからでした。以来、今日も後輩たちによって大切に守り育てられているのです。
【飯田城ガイドブックより】
2006年10月14日
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