戦国時代になると、全国の武将たちが領地を激しく奪い合うようになりました。甲斐から勢力を伸ばした武田信玄は、1554年(天文23)に下伊那に侵攻し、鈴岡城主の小笠原信定を攻め落としました。これを見た飯田城の坂西氏をはじめ大島・松岡・飯沼知久の諸氏は、信玄に降伏し、その配下につきました。しかし竜東の知久氏は降伏しなかったため、1556年(弘治23)信玄は知久氏の神之峰城を攻め落としたのでした。
信玄は大島城とともに飯田城を重視し、跡部忠勝や秋山信友をおいて飯田下伊那の支配を行い、周辺にも浪合関所など6か所に関所を設けました。こうした武田氏による伊那谷の支配は28年間続きました。この時代、飯田城は武田氏支配の拠点にふさわしく改修が加えられ、整備されたと考えられます。
1582年(天正10)2月、武田氏の打倒を目指す織田信長は、下条氏長と松尾小笠原信嶺が武田氏を裏切ったことにより、息子信忠の軍を平谷口と清内路口から伊那郡に攻め入らせました。このとき飯田城を守っていた武田の大将保科正直は真っ先に逃げ、坂西織部も戦いに敗れて大平方面へ逃げる途中で討ち取られました。3月11日、武田勝頼・信勝父子は天目山で討ち取られて武田氏は滅亡。信長は、父子二人の首を飯田城下にさらしました。
【飯田城ガイドブックより】
2006年10月14日
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