
飯田城ができる以前は、このあたりには修験者(山伏)の修行所がありましたが、坂西氏はそれまでいた愛宕城の土地と交換して飯田城を築いたので、「山伏丸」と名付けられたのです。絵図をみると、山伏丸の東に熊野権現がまつられていたことがわかります。また、飯田城が三の丸に拡張される以前は、この曲輪が本丸だったという説もあります。
絵図をみると、入口のわきには番所、中に甲冑や武具をおさめた御蔵(武庫)が建っていました。中央には御用水を引き入れた池があり、周囲は白塀で囲まれていて、裏に裏門、南西と北東の隅に櫓がありました。
堀氏の時代には、毎年正月11日の「具足開き」に、山伏丸の御蔵におさめられた甲冑や武器が、領民に公開されたといわれます。
【飯田城ガイドブックより】