

城内の入口に建つ追手御門(大手門)を入り石垣の枡形を抜けると、広い御馬場とよぶ通りが真っ直ぐにのび、出丸と桜丸の間にある御広庭の突き当たりに鐘の門(出丸御門・三ノ門)が建っていました。この通りに平行して南裏町(現・常盤町)と北裏町(現・主税町)があり、あわせて「城内三筋(じょうないみすじ)」と呼ばれました。
三の丸には、主に上中級の飯田藩士の屋敷がありました。中通の中央南側(現在の商工会館付近)には、藩士が集まって話し合う会所がありましたが、1869年(明治2)に文武講習所(文武学校)という藩校となりました(1871年12月に追手町小学校の前身にあたる飯田町立校となる)。
追手御門の南側には、石垣の上に太鼓櫓が建ち、北側には八間蔵(武器庫・わら置場・牢屋として使用)と呼ぶ大きな蔵と、その隣りに馬屋が建ち、北裏町北側にも御内馬場(桜馬場)と呼ばれる乗馬の練習場がありました。
北堀の北はしには不明門(あかずのもん:松尾口御門)が建ち、その近くには2階建ての櫓がありました。また、その東側に建つ北口御門を出ると、御成道(おなりみち)と呼ばれた小道が馬場町へと続いていました。
【飯田城ガイドブックより】