飯田城の取り壊しは、全国の他の城に比べても徹底したものでした。
本格的な取り壊しは1871年7月からの数ヶ月間ですが、その前年には伝馬町の枡形にあった48本の杉の巨木「いろは杉」が切り倒され、「にせ二分金」による損害の穴埋めをするために売られました。
1871年、12代堀親広が9月6日に江戸から飯田へ帰ると、翌日をもって追手御門の使用をやめ、13日から北堀・南堀の埋め立てが始まりました(水さらいは2日から)。15日には追手御門など城門の取り壊しが開始され、21日からは本丸において道具類の競売が行われました。また、飯田城の周りや城下町を取り囲む土塁上の立木も切り倒されていきました。10月11日には城門の石垣や建物の礎石が、町の用水工事などに使う石材として運び出され、14・15日には水の手御門などの建物が入札されました。
1872年2月11日、飯田城郭を受け取りにきた元長州藩士(山口県出身)の山県頼介は、以後しばらくは城門を閉めさせて、元飯田藩士だった安東欽一郎(あんどうきんいちろう、柳田國夫の義父 直平と安東貞美の実兄)と菱田鉛治(ひしだえんじ、菱田春草の父)に城の管理を任せました。
10月1日には、ついに本丸の建物など全てが取り払われました。
このように、飯田城の建物や施設も立木も、すべて取り除かれてしまったのです。さらに残念だったことに、道具類ばかりか、飯田藩の古い文書なども多くが処分されてしまいました。
【飯田城ガイドブックより】
posted by 三宜亭本館 at 17:50|
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飯田城 歴史探訪
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