飯田城は、どうしてこれほどまでに破壊されてしまったのでしょうか。
これについて、次のような説があります(鈴川博『消された飯田藩と江戸幕府』)。
飯田城主11代堀親義(ほり ちかのり)は、最後の将軍徳川慶喜の側近として、京都守護職の会津藩主(福島県)松平容保(まつだいら かたもり)のもと、京都見廻役頭あるいは奏者番として京都の治安を守りましたが、その配下にあったのが有名な新撰組です。新撰組は薩摩藩や長州藩などの勤皇の志士を退けようと見張り、襲撃もしました。そして、1867年(慶応3)の坂本龍馬の暗殺や、1869年9月の長州藩出身の明治政府高官である大村益次郎(山県有朋の直属上司)の襲撃と殺害にも、元飯田藩の関係者が参加したという説があります。そのため、飯田藩は明治新政府から睨まれていたのです。それに加えて、1884年(明治17)12月には明治政府の転覆を計画した「飯田事件」が起こりました。
ですから、明治政府は堀飯田藩の史跡ばかりか、その輝かしい歴史までも抹殺しようとしたというのです。
【飯田城ガイドブックより】
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