2008年09月17日

中世飯田城と近世飯田城

飯田城は、室町時代に坂西(ばんざい)氏によって築かれた後、改修が繰り返されて次第に大きくなったと考えられています。
飯田市美術博物館が建設されるときに行われた二の丸跡の発掘調査では、江戸時代以前に埋め立てられた古い空堀が見つかっています。江戸時代の絵図に見られる近世の飯田城とは曲輪のつくりが違う中世の城があったことがわかります。恐らく坂西氏時代の城と思われます。

その後、武田氏時代には当然伊那谷支配の拠点にふさわしく整備されたことでしょう。つづく毛利・京極氏の時代には、織豊系城郭プランによる大改修が行われて城の範囲も拡大したと考えられます。城下町も背後の台地上に本格的に整備されるようになりました。そして、こうした整備は小笠原氏や脇坂氏へと引き継がれたのでした。

【飯田城ガイドブックより】



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2008年03月09日

飯田城と織豊系城郭プラン

【飯田城】城の縄張り飯田城は、各曲輪の入口に枡形がつくられています。枡形には、曲輪の外にある「外枡形」と、内にある「内枡形」の二種類がありますが、飯田城では、二の丸・出丸・本丸への入口が外枡形であるのに対して、城内(三の丸)への入口にあたる追手門・不明門は内枡形、また城下町への出入口3ヶ所(伝馬町・土井・箕瀬)内枡形でした。
こうした曲輪と枡形が発達した形は、織田信長・豊臣秀吉によってつくりあげられた“織豊系(しょくほうけい)城郭プラン”の特徴です。特に三の丸の鐘の門から二の丸御門にいたる間や、二の丸から本丸御門にいたる間のように、外枡形が連続する形は文禄・慶長の役(1592・1597年)以降の特徴といわれています。飯田城はその典型といってよいでしょう。【飯田城】城の出入口の種類
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2007年07月28日

飯田城が破壊された理由

飯田城は、どうしてこれほどまでに破壊されてしまったのでしょうか。
これについて、次のような説があります(鈴川博『消された飯田藩と江戸幕府』)。

飯田城主11代堀親義(ほり ちかのり)は、最後の将軍徳川慶喜の側近として、京都守護職の会津藩主(福島県)松平容保(まつだいら かたもり)のもと、京都見廻役頭あるいは奏者番として京都の治安を守りましたが、その配下にあったのが有名な新撰組です。新撰組は薩摩藩や長州藩などの勤皇の志士を退けようと見張り、襲撃もしました。そして、1867年(慶応3)の坂本龍馬の暗殺や、1869年9月の長州藩出身の明治政府高官である大村益次郎(山県有朋の直属上司)の襲撃と殺害にも、元飯田藩の関係者が参加したという説があります。そのため、飯田藩は明治新政府から睨まれていたのです。それに加えて、1884年(明治17)12月には明治政府の転覆を計画した「飯田事件」が起こりました。
ですから、明治政府は堀飯田藩の史跡ばかりか、その輝かしい歴史までも抹殺しようとしたというのです。

皆さんは、どのように考えますか。
【飯田城ガイドブックより】
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2007年04月03日

飯田城廃城の過程

飯田城の取り壊しは、全国の他の城に比べても徹底したものでした。
本格的な取り壊しは1871年7月からの数ヶ月間ですが、その前年には伝馬町の枡形にあった48本の杉の巨木「いろは杉」が切り倒され、「にせ二分金」による損害の穴埋めをするために売られました。

1871年、12代堀親広が9月6日に江戸から飯田へ帰ると、翌日をもって追手御門の使用をやめ、13日から北堀・南堀の埋め立てが始まりました(水さらいは2日から)。15日には追手御門など城門の取り壊しが開始され、21日からは本丸において道具類の競売が行われました。また、飯田城の周りや城下町を取り囲む土塁上の立木も切り倒されていきました。10月11日には城門の石垣や建物の礎石が、町の用水工事などに使う石材として運び出され、14・15日には水の手御門などの建物が入札されました。

1872年2月11日、飯田城郭を受け取りにきた元長州藩士(山口県出身)の山県頼介は、以後しばらくは城門を閉めさせて、元飯田藩士だった安東欽一郎(あんどうきんいちろう、柳田國夫の義父 直平と安東貞美の実兄)と菱田鉛治(ひしだえんじ、菱田春草の父)に城の管理を任せました。
10月1日には、ついに本丸の建物など全てが取り払われました。

このように、飯田城の建物や施設も立木も、すべて取り除かれてしまったのです。さらに残念だったことに、道具類ばかりか、飯田藩の古い文書なども多くが処分されてしまいました。
【飯田城ガイドブックより】
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2007年03月28日

飯田城に天守閣はあったか

現在残るもっとも古い飯田城の絵図は、下伊那教育会にある脇坂氏時代の絵図です。
本丸には平屋建てを主とした御殿と小さな櫓が建っているだけです。しかし、飯田城にはそれ以前に天守閣があった、という説が、江戸時代の中ごろの書物(「信州伊奈郷村鑑」「信陽城主得替記」「飯田記」など)の中に書かれています。そして、郷土史を研究してきた先生の中にも、それを支持する考えがあります(平沢清人『飯田城と近世の飯田城』1972など)。

天守閣があったはずだとする理由は、おおよそ次の通りです。
豊臣秀吉に命じられて飯田城主となった毛利秀頼・京極高知は、ともに秀吉の信頼が厚い側近でした。秀頼は「羽柴」の称号と「豊臣」の姓を授かっていたほどですし、高知の姉は秀吉の側室となっていました。飯田城主毛利・京極氏の10万石に対して、松本城主の石川氏は8万石、諏訪の高島城主の日根野氏は3万5千石であるのに天守閣をつくっています。ですから、毛利・京極氏が天守閣をつくらなかったはずがないというのです。

さらに古い書物には、飯田城の天守閣を松本城へ移した、ということが書かれています。飯田城主であった小笠原秀政が1613年(慶長18)に松本城主となるとき、飯田城の天守閣を解体して運んだというのです。
松本城には、5重6階の大天守に、3重4階の乾子天守がついた形となっています。この乾子天守がもとは飯田城の天守閣で、山伏丸のあたりにあったのでは、という説があります。

ところが、現在の飯田城には天守閣があったことを示す跡はありません。また松本城でも、それを裏付ける証拠は見つかっていません。そこで、飯田城はその地形からみて天守閣は必要なかった、という考え方や、あるいは天守閣の建設は計画倒れで終わったのではないか、という説もあります。しかし一方で、松本城の乾子天守が初めから現位置に建てられたにしては不自然だ、という人もあるのです。
はたして飯田城に天守閣があったのか、いまだに大きなナゾと言えます。

【飯田城ガイドブックより】
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2007年03月18日

飯田城と伊那谷

飯田城の歴史をみると、武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった、日本の歴史上で大変有名な武将たちの名前が登場します。彼らは、この伊那郡の支配をめぐって争い、そして有力な家臣を飯田城において治めさせたのでした。それは、当時この地がいかに重要だったかを物語っています。

飯田は信濃(長野県)や東日本への玄関口にあたり、伊那谷は西日本と東日本のほぼ中間にあって、両者をむすぶ回廊の役割を果たしてきました。それは戦国時代や江戸時代に限らず、古くは縄文時代から弥生・古墳・奈良・平安時代、中世についても同様でした。

また、天竜川の東西に南アルプス(赤石山脈)・伊那山脈と中央アルプス(木曽山脈)がそびえて山深い伊那谷は、豊かな森林資源を持つ、大変重要な地域でした。江戸時代のはじめには榑木成村(くれきなりむら)といって、年貢を米ではなく、材木(榑木)で納めた村々があったほどです。

【飯田城ガイドブックより】
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2007年03月11日

飯田城内を歩こう 【水の手番所】

mizunote.jpg本丸の南下にある県営住宅の西側にあった番所です(水の手町)。三方には石垣を高く積み上げ、外側に上の堀と呼ばれる水堀がありました。番所の東端に門があって、水堀に木橋がかけられ、また水堀の外側には杉の大木が並んでいました。

本丸の水汲門から少し下りたところに、本丸の井戸が枯れたり戦のときに使う、隠し井戸がありました。この番所はその井戸を守るためのものであったといわれますが、本丸そのものの守りでもあったのでしょう。

【飯田城ガイドブックより】
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2007年03月10日

飯田城内を歩こう 【三の丸】

ohtegomon.jpgsannomaru.jpg 銀座通りの東側にあった水堀(北堀・南堀)から、桜丸と出丸に接するまでの広い範囲が三の丸の曲輪でした(追手町1丁目・主税町・常盤町及び追手町2丁目の一部)。現在、商工会館・バスターミナル他、民家や商店などがあります。

城内の入口に建つ追手御門(大手門)を入り石垣の枡形を抜けると、広い御馬場とよぶ通りが真っ直ぐにのび、出丸と桜丸の間にある御広庭の突き当たりに鐘の門(出丸御門・三ノ門)が建っていました。この通りに平行して南裏町(現・常盤町)と北裏町(現・主税町)があり、あわせて「城内三筋(じょうないみすじ)」と呼ばれました。

三の丸には、主に上中級の飯田藩士の屋敷がありました。中通の中央南側(現在の商工会館付近)には、藩士が集まって話し合う会所がありましたが、1869年(明治2)に文武講習所(文武学校)という藩校となりました(1871年12月に追手町小学校の前身にあたる飯田町立校となる)。

追手御門の南側には、石垣の上に太鼓櫓が建ち、北側には八間蔵(武器庫・わら置場・牢屋として使用)と呼ぶ大きな蔵と、その隣りに馬屋が建ち、北裏町北側にも御内馬場(桜馬場)と呼ばれる乗馬の練習場がありました。

北堀の北はしには不明門(あかずのもん:松尾口御門)が建ち、その近くには2階建ての櫓がありました。また、その東側に建つ北口御門を出ると、御成道(おなりみち)と呼ばれた小道が馬場町へと続いていました。

【飯田城ガイドブックより】
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2007年02月26日

武田信玄 終焉の地

shingenz.jpg
飯田城は戦国時代、長らく武田家の支配下でした。NHK大河ドラマ「風林火山」も放映されていることもあり、信玄ゆかりの地を紹介したいと思います。ご興味のある方は、訪れてみてはいかがでしょうか。
 
◆ 信玄塚・信玄の宝篋印塔(根羽村)

信玄公は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の療養をしていたが、病状が思わしくなく、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中、元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ”ねばね”の上村において他界された(「甲陽軍鑑」より)。
その折風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。根羽村史跡信玄塚はこれより下方五十メートルの所に有る。
寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。降って宝歴(1751〜1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。

この宝篋印塔は、昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式をそなえ、城主・大名級のものであるとされている(根羽村教育委員会)。
 
◆長岳寺・信玄公供養灰塚(阿智村)

長岳寺は、武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺。信玄公は野田城攻めの最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の郷、駒場の山中で落命。享年53歳。

信玄公の義理の兄弟、下條家出身の六世裕教法印が長岳寺の住職を務めていた関係で信玄公の遺骸が長岳寺に運び入れられたが、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰った。その後、長岳寺を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下條伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られた。
昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立された。

長岳寺には、信玄が使用していた兜の前立て二種類があり、「鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付」、「大日の丸練革製朱塗」が保存されている。
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2007年01月16日

飯田城内を歩こう 【桜丸】

sakuramaru.jpg現在、長野県飯田合同庁舎が建つあたりの曲輪です(追手町2丁目)。桜丸御門(赤門)を正面の入口として、白塀と御亭堀(おちんぼり:水堀)で区画された内が、桜丸(桜の丸)でした。
桜丸御殿は、脇坂安元が安政を養嗣子に迎えるために建てられた屋敷です。このとき安元は曲輪内に多くの桜を植えたため、桜丸と名付けられたといわれます。曲輪の東端にある夫婦桜と呼ばれる古木などが、その名残をとどめています。
堀氏の時代になってからは、若殿の御殿や隠居所として利用されました。後に、本丸御殿が杉の大木のため薄暗く、奥まっていて不便なこと、1855年(安政2)10月の大地震で大破したために、かわりに桜丸御殿で政務を行うようになりました。

飯田城跡にただ一つ残る建物である桜丸御門(赤門)は、1754年(宝暦4)に建てられたものです。そのほかの屋敷の様子は、残っている平面図から詳しく知ることができます。東南すみには茶室、東すみには青霞楼という建物があったことなどがわかります。
なお、桜丸跡には、1872年(明治5)に筑摩県の郡役所になって以来、役所や裁判所などがおかれました。

【飯田城ガイドブックより】
 
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2006年12月30日

飯田城内を歩こう 【出丸・水の手御門付近】

demaru.jpg出丸は、現在、飯田市立追手町小学校が建つ曲輪です。三の丸の御広庭の突き当たりにあった鐘の門(出丸御門・三ノ門)を入口とし、弧を描く水堀―欅堀(槻堀)で区画された内が出丸でした。本来、出丸というのは、外部の敵に攻撃を仕掛けるために、城本体の外側に張り出すように設けられた曲輪のことです。
図書館の東寄りにあった出丸御門をくぐると、土塁や白堀、柵で仕切られた枡形となって二の丸御門へ行く土橋があり、その反対には出丸への入口の門がありました。また、土橋の手前から南方へ水の手坂を少し下りたところに、水の手御門と呼ばれる櫓門が建っていました。江戸時代中ごろの書物には、飯田城が今の銀座通りまで拡大されて三の丸ができる以前に、ここが追手門でしたが、後に搦手門になったと記されています。
このように、鐘の門・水の手御門・二の丸御門という3つの門にはさまれた一帯は、石垣積みの土塁で複雑に折れ曲がって枡形を形づくり、飯田城の中で最も防御のかたいところとなっていました。飯田城が三の丸まで拡大する前は、ここが城の入口(虎口)であったと考えられます。
出丸の内部は、古絵図をみると、水堀の内側に白塀をもち、その中ほどに櫓が建てられています。絵図によっては、塀に狭間(さま:弓矢や鉄砲で狙う小窓)が描かれたものも見られます。内部には、脇坂氏の時代には藩主脇坂安政の実兄、堀田上野介正信を幕府よりあずかった出丸御門(御在所)がありました。これが、1678年(延宝6)の火災にあうと、かわって年貢米を貯える米蔵5棟(「千俵蔵」)が建てられました。
なお、出丸跡に現在の追手町小学校の前身、飯田尋常高等小学校が移ったのは、1890年(明治23)のことです。

【飯田城ガイドブックより】
 

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2006年12月24日

飯田城内を歩こう 【二の丸】

ninomaru.jpg美術博物館などがある一帯の曲輪です(追手町2丁目)。 
二の丸御門(八間門・二ノ門)をくぐると、本城道(大通り)がまっすぐにのび、本丸近くに冠木門(かぶきもん)をもつ枡形がありました。
脇坂氏時代には、大通りの両側に重臣の家老や御典医の屋敷が建っていて、北側の一画には3間×6間(約5.4×10.8m)の大きさの城米倉(じょうまいぐら)、南と北の崖ぎわには櫓が2棟ありました。

江戸時代の終わりごろになると、堀氏の家老安富家の屋敷(本城道南側の西半分)のほかは、多くがお花畑となり、櫓も南の1棟のみとなりました。先の城米倉は宝蔵として使われましたが、1976年(昭和51)までその建物が残っていました。

なお、二の丸跡の美術博物館用地には、1884年(明治17)に郡立下伊那中学校が移って以来、1982年(昭和57)に飯田長姫高校が鼎へ転出するまで、飯田中学(飯田高校の前身)、長姫高校(飯田商業学校)などの学校がありました。

 【飯田城ガイドブックより】

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2006年11月19日

飯田城内を歩こう 【本丸】

honmaru-1.jpg現在、長姫神社や柳田國男館・日夏耿之介記念館などが建つ一帯の曲輪です(追手町2丁目)。
本丸御門(一ノ門)をくぐると、飯田藩主の本丸御殿(御殿と奥御殿)がありました。平屋建てを主とした建物群で、1872年(明治5)の図面(「御本丸建家惣絵図」)によれば、建物の広さは412坪、畳は524畳半もあったと記録されています。
本丸の周囲は白塀で囲まれ、北側には石垣が巡り、南と北東の隅には櫓が2棟ありました。本丸御門を入ったすぐ右手から、御殿南側をまわって埋門(うずみもん)を抜け、山伏丸へと通じる通路がありました。そして、南には水汲門と番所があり、ここから下りる道は、崖下にある水の手番へと通じていました。段丘崩には、飯田城の別名「三本杉城」、「六本杉城」のように、杉やケヤキなどの大木がしげっていました。
尚、柳田國男館と日夏耿之介記念館の建築前の発掘調査では、柳田館の位置から石組みの大きな池の跡、日夏館の位置からは太い柱の跡が見つかっています。

【飯田城ガイドブックより】honmaru-3.jpghonmaru-2.jpg
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2006年10月29日

飯田城内を歩こう 【山伏丸】

yamabushi-maru.jpg最も東はしの曲輪です。眺めがよく、遠くに伊那山脈と南アルプス(赤石山脈)を望むことができます。現在、我らが三宜亭本館が建っています。
飯田城ができる以前は、このあたりには修験者(山伏)の修行所がありましたが、坂西氏はそれまでいた愛宕城の土地と交換して飯田城を築いたので、「山伏丸」と名付けられたのです。絵図をみると、山伏丸の東に熊野権現がまつられていたことがわかります。また、飯田城が三の丸に拡張される以前は、この曲輪が本丸だったという説もあります。
絵図をみると、入口のわきには番所、中に甲冑や武具をおさめた御蔵(武庫)が建っていました。中央には御用水を引き入れた池があり、周囲は白塀で囲まれていて、裏に裏門、南西と北東の隅に櫓がありました。
堀氏の時代には、毎年正月11日の「具足開き」に、山伏丸の御蔵におさめられた甲冑や武器が、領民に公開されたといわれます。
【飯田城ガイドブックより】
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2006年10月16日

近世飯田城(城下町)のつくりと特徴

飯田城という場合、惣堀で囲まれた城下町も含めた全体を呼ぶときと、城下町を除いた追手門の内側のみを呼ぶときがあります。ここでは後者を飯田城内と呼び、城下町と区別することにします。
 
◆飯田城内
飯田城は、松川と谷川に挟まれて段丘が岬状に突き出た部分を利用してつくられています。水堀や空堀で区画された6つの曲輪――山伏丸・本丸・二の丸・出丸・桜丸(桜の丸)・三の丸が直線的に並んだ「連郭式」と呼ばれる平山城の形態です。

城の両側には天然の断崖をもち、敵が本丸を攻める場合、いくつもの曲輪を突破しなければなりません。その上、それぞれの曲輪の入口には敵がまっすぐ進めないように、通路を土塁でカギの手にまげた枡形がつくられていました。また、本丸の南側崖下には水の手番と水堀があり、北側崖下の谷川沿いにも水堀が並んでいました。
このように、飯田城は大変守りの堅い城と言うことができます。

◆城下町
飯田城の城下町は、古くは城下に小規模にあって、後にいう水の手御門を追手門にしていたのではないか、とも考えられています。しかし、近世になって城が整備されるとともに、城下町は城の西方の台地上に広がるようになりました。そして、南を松川、北を野底川に挟まれた台地に拡大し、西側から北側にかけて惣堀(空堀)・土塁で囲まれるようになりました。江戸時代中ごろになって加わった桜町を除いて、城下町はみなその中にありました(ただし、箕瀬町は正確には飯田町でなく上飯田村分の在郷町だった)。
城下町は、中央に流れる谷川と、そこにかかる谷川橋(現在の長姫橋)によって現在でいう橋南と橋北に大きく分けられます。城下町の3つの出入口(伝馬町・土井・箕瀬)には枡形が設けられ、惣堀沿いには寺院が配置され、堀の内側には周辺に侍屋敷、中心に町屋がおかれていました。つまり、町人を大事に考え、商業の発展を目指した町であったことがわかります。
町屋は、橋南(南町)が13か町、橋北(北町)が5か町ありました。特に橋南では、竪町と横町の通りによって長方形に区切られた規則正しい町並みを形づくっていました。また、町屋1軒ごとは、間口(通りに面した正面)の幅に応じて税金がかけられたので、間口が狭く、奥に長い短冊形をして並んでいました。こうした形は、京都などにならったものでした。さらに、京都の雅な文化が好まれたこともあわせて、飯田の町は“小京都”と呼ばれていました。
惣堀に沿って寺院がおかれたのは、もしも敵が攻めてきたら、寺に兵をおき、惣堀の内側にある土塁上に墓石を並べて侵入を防ぐためであったと言われます。また、惣堀も普段は空堀ですが、水を溜めて水堀に変えることができた部分もあったようです。その内側の土塁には、外部からの城下町と城内が見渡せるのを防ぐために、杉や松が植えられていました。
このように、飯田の城下町は毛利・京極氏10万石時代に構想された大規模な都市計画に基づいてつくられていたのです。

◆全体
標高を比べてみると、城下町から城内に入り、三の丸から二の丸、さらに本丸に行くほど低くなります。こうした形は小諸城(小諸市)にも見られますが、江戸時代の多くの城が城下町の上にそびえているのとは大きく異なります。戦国時代の防御用の平山城を引き継いで整備したところに、飯田城の大きな特徴があるといってよいでしょう。

【飯田城ガイドブックより】
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2006年10月14日

飯田のまちと飯田城

飯田のまち(長野県飯田市 旧飯田町)は、「丘の上」とよばれます。それは、このまちが中央アルプス(木曽山脈)の南はし、風越山のふもとに広がる段丘上にあって、東側を流れる天竜川の支流――松川・野底川によって両側を深くえぐられた高台となるからです。ですから、眺めがよく、遠く天竜川の向こうには伊那山脈と南アルプス(赤石山脈)を望むことが出来ます。

飯田は、かつて「小京都」ともたたえられた山都でした。そして、飯田下伊那地方の中核をなす都市として、政治ばかりか経済や文化においても、大変栄えてきました。その最大の理由は、ここに飯田藩の拠点である飯田城と、幕府領の千村飯田役所があり、城下町が商工業都市として発展したからでした。

ところが、明治時代になると、飯田藩が廃止されて飯田県(後に伊那県)が誕生し、飯田城は廃城となって門や建物・石垣は取り除かれ、堀も埋められて、立木も切り払われました。城下町の町並みも、新しい道路がつくられたりして、次第に姿を変えていきました。

さらに1947年(昭和22)4月20日の大火によって、町の大半を焼失し、その後、新しい都市計画に基づいて防火モデル都市として復興したものの、町の様子は以前とはすっかり変わってしまいました。そのため今日では、かつてこのまちに飯田城があり、城下町として栄えたことすらあまり知られていません。

しかし、気をつけてみると、あちこちに飯田城と城下町の面影が残っています。

【飯田城ガイドブックより】
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飯田城の歴史 〜概要〜

飯田城が現在の位置へ移ったのは、今から約780年前の坂西(ばんざい)氏の頃で、三宜亭本館辺りに本丸が築かれました。

その後、毛利氏、京極氏、小笠原氏と戦国と動乱の中で、城或いは城下町を改修し、江戸時代的な城郭、町屋を完成させたのは脇坂氏の頃です。

長姫神社(おさひめじんじゃ)一帯に本丸、三宜亭本館辺りには山伏丸、美術博物館辺りが二の丸、中央図書館辺りに三の丸、そして合同庁舎近辺に桜丸として、町との堺には堀を設けました。それが現在の銀座通り(堀端)です。

城は明治4年に取り壊されるまで堀氏12代まで続きました。

長姫神社は別名「御三霊様」と呼ばれ、堀氏の先祖 久太郎秀政(ひでまさ)、親良(ちかよし)、飯田堀氏の初代親昌(ちかまさ)を祭ったことからこの名があります。

飯田城の歴史を振り返ると日本史に名を残すような卓抜した武将も、又、川中島のような戦いも無く、戦国の世には常にある家督争いの紛争は繰り返してはいたが、比較的平穏な山村であったと思われます。

唯一、鈴岡城の攻防、松尾城・神の峯城の戦い等、武田家統治下の二十数年間が歴史の中では一番興味のある処と言えます。

尚、堀家12代目の親広(ちかひろ)が江戸へ引き上げ、江戸屋敷である音羽御殿に入り、後に田中角栄邸となり目白御殿として世に君臨します。
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飯田城のおこり

飯田城のおこりははっきりしませんが、室町時代の坂西(ばんざい)氏によって築かれたと言われています。鎌倉時代に地頭としてこの地に来た坂西氏は、はじめ松原宿(飯田市上飯田)のあたりに住居をおきましたが、後に飯坂(飯田市愛宕)に小さな城――愛宕城(飯坂城)を構えました。

さらに、室町時代になって、より広い用地をもち展望のきく要害の地を求めて、飯田城を築いて移ったのです。このとき、その地は山伏(やまぶし:修験者)の修行の場となっていたので、愛宕城の土地と交換したと言われています。

室町時代から戦国時代にかけて、飯田下伊那には各地に領主がいて、多くの城が築かれました(中世城館跡は約140あるとされています)。信濃守護松尾小笠原氏の松尾城(飯田市松尾)、同じく信濃守護の鈴岡小笠原氏の鈴岡城(飯田市駄科)、下条氏の吉岡城(下條村)、松岡氏の松岡城(高森町)、大島氏の猿ヶ鼻城(後の大島城 松川町)、知久氏の飯沼城(飯田市上郷)と神之峰城(飯田市上久堅)などです。坂西氏の飯田城もその一つでした。

【飯田城ガイドブックより】
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武田氏時代の飯田城

戦国時代になると、全国の武将たちが領地を激しく奪い合うようになりました。甲斐から勢力を伸ばした武田信玄は、1554年(天文23)に下伊那に侵攻し、鈴岡城主の小笠原信定を攻め落としました。これを見た飯田城の坂西氏をはじめ大島・松岡・飯沼知久の諸氏は、信玄に降伏し、その配下につきました。しかし竜東の知久氏は降伏しなかったため、1556年(弘治23)信玄は知久氏の神之峰城を攻め落としたのでした。

信玄は大島城とともに飯田城を重視し、跡部忠勝や秋山信友をおいて飯田下伊那の支配を行い、周辺にも浪合関所など6か所に関所を設けました。こうした武田氏による伊那谷の支配は28年間続きました。この時代、飯田城は武田氏支配の拠点にふさわしく改修が加えられ、整備されたと考えられます。

1582年(天正10)2月、武田氏の打倒を目指す織田信長は、下条氏長と松尾小笠原信嶺が武田氏を裏切ったことにより、息子信忠の軍を平谷口と清内路口から伊那郡に攻め入らせました。このとき飯田城を守っていた武田の大将保科正直は真っ先に逃げ、坂西織部も戦いに敗れて大平方面へ逃げる途中で討ち取られました。3月11日、武田勝頼・信勝父子は天目山で討ち取られて武田氏は滅亡。信長は、父子二人の首を飯田城下にさらしました。

【飯田城ガイドブックより】
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織田・豊臣時代の飯田城

武田氏を滅ぼして伊那郡を手中にした織田信長は、ただちに家臣の毛利秀頼を大島城におきました。そして、秀頼は下条氏長を飯田城の城代としました。しかし、4ヶ月後の1582年(天正10)6月2日の本能寺の変によって信長が倒れると、秀頼は伊那郡を去り、かわって徳川家康が伊那谷を支配しました。飯田城には下条頼安をおき、翌年、家康の家臣菅沼定利が知久平城から飯田城に入りました。

ところが、天下を治めた豊臣秀吉は、1590年(天正18)徳川家康を関東に移すと、伊那郡の武士の多くもそれに従いました。かわって、秀吉は毛利秀頼に再び伊那郡の支配を任せて、飯田城においたのです。しかし、3年後の1593年(文禄2)、秀頼が朝鮮出兵の陣中に亡くなると、そのもとで高遠城主で飯田城代を兼ねていた秀頼の娘婿京極高知を飯田城主とし、1600年(慶長5)に丹後宮津に移すまでの8年間治めさせました。

この毛利・京極時代、飯田領は下伊那ばかりか上伊那を含めた10万石があり、検地が行われました。飯田城は規模を拡大し、城下町も次第に整えられてきました。特に京極氏は、家臣の光増右衛門を奉行にして、10万石の城下町にふさわしい都市計画をつくり、整備を進めたと言われます。

【飯田城ガイドブックより】
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